ボビー・スミス キャリアを決めた2つの決断
Check 公式ニュース2009年9月20日
スパーズ・レジェンドの元ストライカー ボビー・スミスが、その人生において2つのフットボールに関わる大きな決断をくだしたことは周知の通り。

1955年から64年にかけてトッテナムでのキャリアを築いた恐れを知らぬストライカーがクラブ史に残した317試合出場、208ゴールの記録は、唯一ジミー・グリーブスにのみ下回る、偉大なる記録。しかし、これからスミスが明かす話は、おそらく周知の逸話とは異なる内容だ。

1948年。ノースヨークシャー地方の若者は、そのキャリアをチェルシーでスタートさせるという決断をくだした。彼の父であるアルフレッドの助言によって。

トッテナムが日曜にチェルシーとの大一番を控え、スタンフォード・ブリッジで始まった自身のキャリア・スタート当時の記憶をボビーは振り返ってくれた。

「私はまずトライアルを受け、そして(ユースの)カップ戦決勝でチャールトンとの試合に出場した。スタンフォード・ブリッジで行われたその試合で私は3ゴールを決めて、3‐1で勝利したんだよ。でも、ロンドンはあまりにも大都会だったんで、私はホーム・シックになってしまった。金曜に試合をしても、土曜日には電車にとって実家に帰っていたんだ」と現在76歳のボビーは明かす。



Bobby, Danny Blanchflower, Jimmy Greaves
ボビー・スミス、ダニー・ブランチフラワー、ジミー・グリーブス





「家に帰ると父親は、『お前が(ロンドンに)戻らなければ、自分がいかに愚か者かに気づくだけ。だから私はお前をロンドンに戻す』と言ってきた。父は、私ならファースト・ディビジョンかカップ戦のメダルを手にすることが出来る、と言っていた。確かにそれは正しかったんだ。もうしばらくロンドンで頑張ってみろ、と父は忠言し、父と共に戻ったんだ。おかげで私は充実した生活を送ることができたのさ。愚痴をこぼしながらも、私は戻った。まだ15歳だったから、文句ばかり言っていたよ。忘れもしないね。2ポンド50セントをポケットに入れて出たんだが、チェルシーが宿代として週に5ポンドをくれた。おかげで7ポンド50セントになったよ。お金のことなどあまり深くは考えていなかった。とにかくフットボールさえできればそれでよかったんだ。練習グランドの横にあるブリタニア・ロードに住んでいた。レニー・ケルやアンディ・ボブハムといった選手と一緒にそこに住んでいたけど、仲はとても良かったよ。みんな、故郷を離れて生活していたから、分かり合えたんだ。もちろん、みんな、実家が恋しかったが、私はとにかく熱心に取り組んだ。グラウンド・スタッフとして一日中グラウンドで働いたのさ。玄関の掃き掃除や、風呂磨き、土曜の試合でチームが使ったシューズの手入れを月曜にしたりね。その生活が、自分の根底にあると思っているよ」


ボビーの父親の影響力は計り知れないものであった。インタビューをしている最中に、ボビーはそれを明かしてくれた。



FA Cup Final, 62
1962年のFAカップ優勝


「あぁ、父の存在は大きかったね。父もフットボールの経験があって、かなり高いレベルでプレーをしていたから、周りの人たちも父がいかに優れた選手であったかを語っていた。私がチェルシーに加わるチャンスが訪れたとき、父は私がそのチャンスを必ずモノにして立派なフットボーラーになれる、と言ってきたんだ。やはり父は正しかった。父が言っていたことの中に、私がFAカップの決勝で活躍する姿を観たい、というものがあった。父もその舞台に立っていたからね。そして、もう一つ。イングランド代表で私がプレーする姿を観たい、とも言っていた。これも父が実現していたことだ。すべてが彼の言う通りになったのさ。ロンドンに初めて来たとき、なんて大都会なんだと驚いたものだよ。小さな村に住んでいた青年が、ロンドンのような大都市に来れば、それは驚くのも当然さ。ただただ、圧倒されたよ。しかし、父親に連れ戻された後からは、私の心境も一変した。父としばらく生活をし、とても充実した日々を送ったんだ。父に大いに励まされて、私は強くなった。父の言葉は、いつも私の心の中に刻まれていた」


ボビー・スミスはすぐにチェルシーでプロ契約を勝ち取った。そして、1950年から55年までの在籍期間で86試合出場、30ゴールを記録している。

しかし、テッド・ドレイクがチェルシーの監督に就任すると、出場機会が激減したスミス。そこにトッテナムが獲得に動き、1955年12月にオファーが提示された。

ボビー・スミスのフットボール・キャリアにおける2度目の大きな決断だった。

「ジミー・アンダーソンとビル・ニコルソンが私に面会をしにやってきた。最初は移籍を望んではいない、と言ったんだ。しかし、ロイ・ベントリー(当時のチェルシーのストライカー)が、新天地に移るべきだ、と助言してくれた。新たな監督との折り合いも良くなかったからね。当時、ジミーが監督をしていて、その後にビルがその座を引き継いだ。彼らが私に会いに来てくれたことにとても感謝している。あれ以降、あの時のことを振り返ることは無かったけどね。すべてが上手く行った。あの決断に関わるすべての人に感謝しているよ。私には懐かしい思い出がたくさんあるけど、いつも思い出すのはトッテナムのことさ」


FA Cup Final, 1961
1961年FAカップ決勝


輝かしい思い出に彩られた栄光の日々。1955‐56シーズンにボビーが決めたゴールが、トッテナムを降格の危機から救い、そこからトッテナムの栄光の歴史が始まったと言っても過言ではない。1957‐58シーズンにはリーグ戦で36ゴールを記録。これは、1930‐31シーズンのテッド・ハーパーのクラブ記録に並ぶ偉大なる記録だった。

1960年10月には、イングランド代表初キャップを飾り、それから15キャップで13ゴールをイングランド代表で記録した。

そして、1961年にリーグ王者とFAカップのダブル(2冠)を達成。さらに1962年にFAカップを連覇。この2度のFAカップ決勝(レスター戦、バーンリー戦)でボビー・スミスはゴールを記録している。さらに、1963年にはカップ・ウィナーズ・カップ制覇とヨーロッパの舞台での栄冠も手にし、イングランド史上最高のストライカー ジミー・グリーブスとの2トップは、当時最も破壊力を持ったコンビと称された。

そして1964年5月に、ボビー・スミスはブライトン・アンド・ホーブ・アルビオンへの移籍でトッテナムのキャリアに幕を閉じる。

「私がトッテナムに加入した時、私はまだまだ未熟な選手だった。そこから多くを学び、仲間の選手たちやビル・ニコルソンと共にプレーしていたことで、世界の頂点にまで上り詰めることができたんだ。ダブルを達成したときは世界最高のクラブだと思っていたよ。もちろん、今でも世界で最高のクラブだと思っているけどね」